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とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

志和岐震災碑

しわぎしんさいひ

所在地

海部郡美波町志和岐

キーワード

安政南海地震の記録

国登録記念物(2017年10月13日登録)

概要

建立年月日:1862(文久2)年9月
対象地震名:安政南海地震
国登録記念物(2017年10月13日登録)
石材:花崗岩
本体の高さ:105センチメートル,幅:25センチメートル,厚さ:20センチメートル。
台石の高さ:63センチメートル,幅:116センチメートル,奥行き:114センチメートル。
(碑の立地と形状)
東由岐からトンネルを抜けると志和岐漁港に出る。漁港から路地を入り,公民館(かつての志和岐小学校)前にさしかかると公民館の向かい側に碑が建っている。ある年代以上の人であれば,小学校へ通う時に一度は目にしたはずである。
碑は道路から見える面を正面とすると,高さ105センチメートル,幅25センチメートル,厚さ20センチメートルの花崗岩の角柱で上端は四角錐である。砂岩の角礫を積んだ高さ63センチメートル,幅116センチメートル,奥行き114センチメートルの台の上に建っている。正面から左周りで202文字が刻まれ,安政南海地震津波の状況等が記されている。安政地震から8年後の1862(文久2)年に建てられたものである。1925(大正14)年の『三岐田町史』によると,志和岐天王地神社境内と記されており,碑の位置は移動している。
(碑文の内容)
嘉永7年11月4日午前8時に大地震があり,家財を寺或いは高い人家に運んだ。翌5日午後4時にまた大地震があり,たちまち津波が押し寄せた。船や網,納屋は流失したが,人々は寺や山に逃れて無事であった。それは全て氏神,諸仏のご加護があったためである。幾年後に大地震があった時には必ず津波が来る。その時には油断ないよう,この石に彫り記し子孫に知らせておきたい。
(参考文献)
三岐田町役場編『三岐田町史』1925(大正14)P.233
海部郡誌刊行会編『海部郡誌』1927(昭和2)P.95
笠井藍水『三岐田町郷土讀本』1950(昭和25)P.24
徳島県経済部林務課『阿波海嘯誌略全』1936(昭和11)PP.7-8
長江正一『阿波に於ける地震の研究』1936(昭和11)P.3
羽鳥徳太郎『高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑1946年南海道津波との比較』東京大学地震研究所1978(昭和53)PP.442-443
由岐町史編纂委員会編『由岐町史』1985(昭和60)PP.291-292
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.71-72
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)P.76
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』教育出版センター2002(平成14)PP.22-24
美波町教育委員会『美波町歴史散歩』2014(平成26)P.84
『企画展描かれた地震解説書』徳島県立博物館
2011(平成23)P.44

石碑
遠景
石碑
全景
石碑
碑文

3D

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碑文(現代語訳)

 去る嘉永七(一八五四)年十一月四日の朝、午前八時頃に大地震があり、不意に潮が高く満ちた。この時、浦中の家財を寺あるいは高い人家へ持ち運んだ。翌五日の午後四時頃、またまた大地震があった。たちまち津波が押し寄せ、船や網、納屋が残らず沖中へ流れ失せた。
浦人が、なんとか寺または山などへ逃げ登り、それぞれ難なく一命が助かった事は、全ての氏神や諸仏の御加護である。これにより、またまた幾年か後に大地震が起き、潮が高く満ちた時は、必ず津波が押し寄せるだろう。その期に及んで少しも油断が無いよう、あらましをこの石に彫記し、長く子孫に知らせておきたい。
法印隆鳳これを写す。

文久二(一八六二)年 施主浦中大施主商人中
九月中吉辰 世話人大黒屋利兵ヱ

拓本

参考文献

徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集

問い合わせ先

徳島県教育委員会教育文化課

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