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とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

大柿遺跡

おおがきいせき

所在地

徳島県三好郡東みよし町昼間

遺跡の概要

吉野川北岸の標高80m前後の中洲性微高地上に立地する。遺跡は東西約1.5km、南北0.5kmを測る通称「シマ」と呼ばれる微高地全体に展開すると推定される。1975年(昭和50年)には吉野川北岸農業水利事業に伴い発掘調査が実施され、弥生時代前期末の遺構からは阿方式土器が出土し、愛媛県との関係を考える上で重要な遺跡として知られてきた。1996年(平成8年)・1997年(平成9年)には高速道路建設に伴う発掘調査が実施された。

微高地平坦部では、縄文時代から中世にかけての集落が確認された。現在は1つの微高地であるが、旧地形においては東西2つの微高地とその間をつなぐ馬背(うまのせ)状の自然堤防から形成されていることが確認された。

大柿遺跡(縄文時代)

キーワード

問い合わせ先

徳島県立埋蔵文化財総合センター

参考文献

徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第37集『大柿遺跡1』 2001年

大柿遺跡(弥生時代)

キーワード

弥生時代前期の棚田

概要

微高地斜面部は、吉野川の古い後背湿地に面しており、確認された最古の水田は弥生時代前期末まで遡る。水田は後背湿地部と斜面を棚田状に開墾している。棚田は5段確認されており、幅2m以下の狭く細長い水田で、各段差は約20~50cmである。導水にあたって微高地を分断する灌漑用水路を開いていることが確認された。

土層観察の結果、弥生時代前期末・同後期・中世などに数回にわたって吉野川の洪水によって水田が埋まっていることが確認された。特に弥生時代中期には洪水が頻繁に発生し、安定した水田経営が営まれておらず、生活基盤を高地に移動していた可能性も考えられる。

東側微高地には弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての集落が検出された。竪穴住居跡15棟・土坑・溝などが確認され、水田を耕作していた人々の集落であったと考えられる。

弥生時代前期における水田形態としては非常に珍しく、当時の灌漑技術を検討する上で非常に重要な遺構である。

大柿遺跡で確認された弥生時代の棚田

問い合わせ先

徳島県立埋蔵文化財総合センター

参考文献

徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第37集『大柿遺跡1』 2001年

大柿遺跡(古墳時代)

キーワード

古墳時代後期の徳島県下最大級の集落

概要

古墳時代後期の遺構面からは徳島県下最大級の集落が検出された。集落は竪穴住居跡280棟以上、掘立柱建物跡40棟以上をはじめとして、灌漑用水路・土壙墓・区画溝等で構成されている。

集落の構造は、大型竪穴住居跡1棟と竪穴住居跡5~10棟、倉庫と考えられる掘立柱建物跡数棟が一グループを形成する。グループどうしの間は50m程度離れている。こうしたグループの様子は古代家族と共同体のあり方を反映していると考えられる。

竪穴住居跡でみつかった造り付け竈(かまど)の9割以上は北壁中央部に位置する。集落内には鍛冶工房2棟の他、鉄滓を出土する住居が10棟程度あり、地方における村方鍛冶のあり方を検討する上で好例となる。なお、6世紀末の水田や竪穴住居跡から噴砂が検出されており、この時期に地震が発生したことが確認された。

問い合わせ先

徳島県立埋蔵文化財総合センター

参考文献

徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第48集 『大柿遺跡2』 2004年

大柿遺跡(古代)

キーワード

問い合わせ先

徳島県立埋蔵文化財総合センター

参考文献

徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第60集『大柿遺跡3』2005年

大柿遺跡(中世)

キーワード

鎌倉時代・埋納された壺

概要

中世の掘立柱建物や水田跡などが見つかっている。なかでも東西4間×南北3間の大形の掘立柱建物の柱跡からは白磁の壺が出土しており、当地の荘園を経営していた有力者の住居の可能性が考えられる。壺が埋納された年代は鎌倉時代(13世紀頃)である。

大柿遺跡で発見された大形の掘立柱建物跡
大柿遺跡の掘立柱建物跡の柱跡から出土した瓦質四耳壺(左)、白磁四耳壺(右)

問い合わせ先

徳島県立埋蔵文化財総合センター

参考文献

徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第60集『大柿遺跡3』2005年

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