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とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

大岩慶長・宝永地震津波碑

おおいわけいちょう・ほうえいじしんつなみひ

所在地

海部郡海陽町鞆浦字北町

キーワード

慶長地震の記録

宝永地震の記録

町指定有形文化財(考古資料)1976年1月20日指定

概要

建立年月日:不詳
対象地震名:慶長・宝永南海地震
町指定有形文化財(考古資料)1976年1月20日指定
石材:砂岩
碑の全高:3m,幅:5m,奥行き:5.2m。
(碑の立地と形状)
国道55号線の新海部川橋の南詰めを河口方面に入り,鞆浦港に沿って走る町道を南へ愛宕山方面に進む。民家が密集した路地に入るとすぐに,通称「立岩さん」と呼ばれる砂岩の大岩が視界に入る。民家と民家の間に鎮座し,独特の存在感を放っている。大岩から町道を挟んで眼前に海面が見え,この場所が標高2~3mであることが感覚的にも認識できる。碑文は町道に面して彫られ,通行する人々に警告を発する目的を持っていたことが想像される。また,海に面して彫られていることにも何らかの意図が感じられる。
大岩は碑文面を正面とすると,高さ3m,幅5m,奥行き5.2mである。正面には長軸136センチメートル,
幅75センチメートル,最深部まで6センチメートルの舟形の彫り込みがある。舟形内の上半部に「南無阿弥陀佛」と彫られている。これが「慶長碑」である。向かって右側には,慶長碑より小振りな舟形の彫り込みに「宝永碑」が刻まれる。この舟形は高さ73センチメートル,幅43センチメートル,最深部まで4センチメートルである。慶長碑は碑文を刻んだ舟形の下半分が丁寧に碑面調整されているが,宝永碑は全体的に調整が粗い。正面左側には大岩を彫り込んで地蔵尊が安置され,コンクリート製の覆い屋が作られている。覆い屋の右脇には,高さ30センチメートル,幅43センチメートルの長方形の彫り込みがあり「施主世話人」の文字と名前が確認できる。地蔵尊を建立した際の世話人の名前を刻んだものと考えられるが,年代は不詳である。
さらに大岩の性格を考える上で重要なものは,慶長碑と覆い屋の間に穿たれた長軸41センチメートル,短軸32センチメートルの楕円形の穴である。これと同様の穴が,背面上部にも穿たれている。ともに現地表面から1~2m上方に位置する。船を係留するための舫(もやい)綱を結んでいた穴と推測できる。これらの形状的な特徴からこの碑の形成過程を考察すると,もともと大岩は海岸に隣接した位置にあり,船を係留するために使われていたと考えられる。埋め立てや土地の隆起等の影響で海から離れ,慶長南海地震の津波の後に街道に面した中央部に慶長碑が彫られたと考えられる。その後,宝永の南海地震が起こり,新たに碑文が彫られた。地蔵尊については時期不詳であるが,津波被災者の供養のために建てられた可能性が考えられる。

慶長地震による津波の被害については,『震汐圓頓寺旧記之写』により宍喰で1,500人が溺死したが,鞆浦では百余人。宝永地震津波については宍喰で11人が溺死したが,鞆浦では溺死者なし。このことから資料が事実とすれば,慶長地震津波の被害が宝永地震津波に比べて圧倒的に大きいこと,宍喰の被害が鞆浦に比べて大きいことがわかる。前者については慶長地震津波が旧暦12月の午後10時頃で暗く,地震が小さかったので津波に気づくのが遅れたためと考えられる。これに対して宝永地震津波は午後2時頃であり,避難しやすい状況であったと想像できる。鞆浦は昭和南海地震津波においても,ほとんど被害が見られなかったため,宍喰に比べて大きな津波が発生しない環境であると推定される。
(参考文献)
小杉榲邨編『阿波国徴古雑抄』日本歴史地理学会 1913(大正2)PP.322-323
海部郡誌刊行会編『海部郡誌』1927(昭和2)P.378
徳島県経済部林務課『阿波海嘯誌略全』1936(昭和11)PP.2-3
長江正一『阿波に於ける地震の研究』1936(昭和11)P.16注(二)※慶長P.18注(四)寶永
海部町教育委員会編『海部町史』1971(昭和46)P.178,609,612
羽鳥徳太郎『高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑1946年南海道津波との比較』東京大学地震研究所1978(昭和53)P.437
※P.433甲浦万福寺には,慶長津波の供養塔(1684年:貞享元年)がある。
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.36-38,PP.41-42
徳島地方気象台編『徳島県自然災害誌』徳島県1997(平成9)P.5(慶長)・P.7(宝永)
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)P.92
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』教育出版センター2002(平成14)PP.80-85
『企画展描かれた地震解説書』徳島県立博物館2011(平成23)P.43

石碑
全景
石碑
慶長地震津波碑
 
石碑
宝永地震津波碑

3D

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碑文(現代語訳)

(慶長碑)
敬って申し上げる。言わんとすることは、百十代天皇(後陽成天皇)の御代の慶長九(一六〇五)年十二月十六日、いまだ午後十時頃で、いつもと変わらず月が白く、寒風が吹いて(体が)凝りかたまって歩くこともできない時分に、大海が三度鳴った。人々が大いに驚き、手をこまねいていたところ、逆波がしきりに起こった。その高さは約三十メートルで、七度来た。それを大塩と名付けた。そればかりか、海底に沈んで亡くなった男女は百人あまりであった。後代に言い伝えるため、これを興し奉る。各々が等しく仏の恵みを受けるに違いない

(宝永碑)
宝永四(一七〇七)年の冬、十月四日の午後二時頃に、大地が大いに震い海水が湧き出した。三メートルあまりの大波が、強い勢いで陸地に登り、三度反復して止んだ。しかし、私たちの浦は一人の死者もなく、幸いというべきである。後世に大地震に遭遇する人たちは、あらかじめ海潮の変化を考慮して、これを避けなければならない。

拓本

参考文献

徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集

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