鞆浦海嘯記碑
ともうらかいしょうきひ
所在地
海部郡海陽町鞆浦字立岩
キーワード
安政南海地震の記録
高木真蔵
町指定有形文化財(考古資料)1976年1月20日指定
概要
建立年月日:1927(昭和2)年5月1日
対象地震名:安政南海地震
町指定有形文化財(考古資料)1976年1月20日指定
石材:砂岩
碑の全高:209センチメートル,本体高:171センチメートル,幅:85センチメートル,厚さ:44センチメートル。
台石の高さ:38センチメートル,幅:119センチメートル,奥行き:84センチメートル。
(碑の立地と形状)
鞆浦の北側を東へ流れる海部川は,かつては海部城の西側で分流し,城の南側を流れる立岩川と合流していた。現在は城の西側は埋め立てられ海部小学校が建っている。立岩川の河口は鞆浦港に続く入江になっており,漁船が繋留されている。この入江の南岸に沿って奥浦から鞆浦へ向かう県道197号線の下り坂が続く。この坂の途中に幼稚園があり,その入口の向かい側に砂岩製の碑が建っている。標高約5m,碑越しに海部城を望める位置にある。ちなみに,ここから坂を下って南へ折れるとすぐに「大岩」があり,両者の距離は300mほどである。
碑は砂岩の板石で,碑の全高は209センチメートルである。本体の高さ171センチメートル,幅85センチメートル,厚さ44センチメートルで,上端が山形に成形される。台石は高さ38センチメートル,幅119センチメートル,奥行き84センチメートルで表面は粗割成形している。碑文の上部には,縦書きで「鞆浦」,その下には横書きで「海嘯記」と刻まれている。右側面には建立年月日と建立者名。左側面には建設世話人,管理者,地主名が見える。この碑の西隣には,県道の拡幅工事が昭和40年代に行われたことを示す石標が建っており,工事にともなって碑の設置場所が移動した可能性が考えられる。
(碑文の内容)
正面の碑文の前段は,安政南海地震の経過と被害の状況を記録したものである。嘉永7年11月4日の午前10時頃の地震に続いて,翌5日の午後4時頃に大いに揺れだし,津波が来るというので,住民は慌てふためいて山々に避難した。津波は夜半までに4~5回あり,余震は夜明けまでに30~40回も続いた。津波の高さは他の地域に比べて低く3~6mほどである。建物の被害も少なく,けが人もでなかった。
後段には,教訓と碑を建てるにあたっての経緯が刻まれている。いにしえより百年前後に必ずあるなれば,後年にもきっとあるであろう。銃手の岡澤行正がこのことを憂い,浦長の高橋甫輔と相談し,そのあらましを石に彫字して普く後世の人に告げようとした。地震があれば,迅速に逃避して命を全うさせようとするよき心構なれば「惻隠の至誠」というべきである。自分にそのことを記して欲しいとしきりに頼むので,その善挙を助けようと思い,安政2年秋に高木宗矩がこれをしるす。
この碑は,安政南海地震の翌年の1855(安政2)年の秋に高木宗矩によって書かれた原文をもと
に,1927(昭和2)年に嗣子の高木貞衛によって建立されたものである。高木宗矩は俳人としても知られる海部郡代の高木真蔵宗矩である。安政地震の翌年,当時の郡代であった高木真蔵が,浦長の高橋甫輔や銃手の岡澤行正に頼まれて碑の原稿を書いたが,何らかの理由ですぐには建立されなかった。それから72年後,ようやく嗣子の高木貞衛によって建立されたことになる。当時は安政地震から73年後,次の南海地震の発生に対する危機感が高まってきたことが,建立の契機となった可能性が高い。
海嘯記の記述によると,碑の建立を提案した岡澤行正や高橋甫助は,南海地震が周期的に起こることを知っていたため,それを後世の人に伝えるべく郡代の高木真蔵に協力を求めた。それに対して郡代が賛同しその意志を子孫が引き継いだことで,碑が現在に至っているのである。碑を建立しようとした経緯が詳しく書かれた県内唯一の碑である。
(参考文献)
海部町教育委員会編『海部町史』1971(昭和46)P.180
羽鳥徳太郎『高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑1946年南海道津波との比較』東京大学地震研究所1978(昭和53)PP.436-437
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.51-53
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)PP.90-91
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』教育出版センター2002(平成14)PP.77-79
3D
- 鞆浦海嘯記碑 (PDF:70 MB)
碑文(現代語訳)
海部郡鞆浦海溢の記
嘉永七(一八五四)年の十一月、地震と津波の変災があった。そのはじめは四日の朝で、たいそうよい天気で冬の日とは思えないほどの暖かさであった。午前十時頃に大地がにわかに震動し、海の潮が狂って港口へ満ち込める音が激しかったため、皆が驚いて騒いだが程なく治まった。その夜もまた地震があったが、たいしたことはなかった。五日はとりわけ空が晴れて、山に雲はかからず、海は波もたっていなかった。日の色が少し黄味を帯びて光が弱い様に思われたが、前日よりも暖かく和やかで小春日和のような天気であったので、誰もが安心していると午後四時頃に大いに揺れだした。鳴音が西山の方に当たって砲声や雷鳴が混じったように響き、魂が消えいるばかりであった。海面は高潮が突然に湧き起こり、向かいの浜を越えて満ち込んで来たので、これは津波だとあわてふためき、取る物も取りあえず最寄りの山々へ逃げ登った。潮の勢いが鋭く激しくみなぎって、陸地は多善寺の門前、川筋は脇宮へ来て引潮となった。このようなことは、夜半までに四、五度あった。地震は、夜が明けるまでに三、四十度ばかり起きた。その中でも午後十時頃の地震は特に大きく、午後四時頃の地震と同様の規模であった。その間に海や山が時々鳴り響き、天柱が折れて地維が隠れるかと恐れ、戦慄を覚えずにはいられなかった。それだけでなく、この夜は寒気が苛烈で、霜風が肌骨に凍みた。満天は澄み渡り、星の光が冴え渡った。すさまじい形勢は言いようがなく、山々に逃げ集まった老若男女はひたすら念仏を唱え金銭衣食の欲念を離れて、ただ命だけでも助かりたいと願うのみであった。この津波で大荒れの所は、六から九メートルも潮があがって命を失ったものも多かったが、ここの浦は三・六メートル程であったので、屋舎もたいして傷まず一人の怪我人もなかったことは、誠にありがたき幸せであった。それより年の暮れまでは、昼夜問わず地震が揺り、潮も時々狂って安心できなかった。今年になって春秋が移るにしたがい、徐々に地震の間隔が開き微動となった。そうは言っても地震の潮は妖しいものだ。昔から百年の前後に必ず津波があるので、後年にもまた必ずあるだろう。銃手の岡澤行正がこの事を憂慮して浦長の高橋甫助と相談し、そのあらましを石に彫字して、広く後世の人に知らせようと考えた。これは、このような変に遭ったならば迅速に避難して命を全うさせようとするよい心構えなので、「惻隠の至誠(あわれみのまごころ)」と言うべきである。私にその事を記すようしきりに頼むので、私もまた感心してその善行を助けようと思い、安政二年の秋に高木宗矩(真蔵)がこれを記す。
参考文献
徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集
問い合わせ先
徳島県教育委員会教育文化課