中喜来春日神社敬渝碑
なかきらいかすがじんじゃけいゆひ
所在地
板野郡松茂町中喜来字牛飼野西ノ越
キーワード
安政南海地震の記録
町指定有形文化財(歴史資料)1996年12月10日指定
概要
建立年月日:1856(安政3)年1月1日
対象地震名:安政南海地震
町指定有形文化財(歴史資料)1996年12月10日指定
石材:サヌキトイド
本体の高さ:148センチメートル,幅:107センチメートル,厚さ:18センチメートル。
台石の高さ:25センチメートル,幅:130センチメートル,奥行き:74センチメートル。
(碑の立地と形状)
国道11号線を北へ進み,阿波踊り空港へと続く県道40号線との交差点を越えると,国道の東側に隣接して林が見える。そこが春日神社である。鳥居をくぐって参道を直進するが,目的の碑は見当たらない。本殿の左側へ回りこむと説明板とともに碑が建っているのが見える。これが敬渝碑である。碑が移動したという記録はないので,最初から本殿の脇にあったのではないかという。神社参拝の作法で本殿を左回りに巡る際,必ず目にする場所にあるということである。
碑は硬質のサヌキトイド製である。碑本体の高さ148センチメートル,幅107センチメートル,厚さ18センチメートル。台石は砂岩製で高さ25センチメートル,幅130センチメートル,奥行き74センチメートルである。本殿の庇の脇にあるため,碑の上部は比較的保存状況は良好だが,下部は雨水が当たるためか,表面が薄く剥落している。
(碑文の内容)
「敬渝」とは「変をおろそかにしない」という意味である。1854(嘉永7)年の安政南海地震時の様子について書かれたもので,地元の藍商人三木與吉郎によって地震から2年後の1856(安政3)年に建てられた。碑には春日神社に隣接する呑海寺住職である夢厳観によって詠まれた七言の漢詩が刻まれている。碑文の前半には大地震により家屋が倒壊し火事が起きたこと,液状化現象や津波によって桑畑が海のようになったことなど地震当時の災害の様子が記述されている。中段には人々が不安のなかで流言飛語が飛び交う様子や津波を避けようと山へ向かって列をつくる様子,粥やにぎり飯を施す人がいたことなど,被災直後の人々の様子が描写されている。後段には東海地方や浪速など全国の被害状況なども記される。
(参考文献)
板野郡教育会編『板野郡誌』1926(大正15)PP.1426-1427
松茂町誌編纂委員会編『松茂町誌(上巻)』1975(昭和50)PP.356-360
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.77-79
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)PP.67-69
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』教育出版センター2002(平成14)PP.97-101
太田剛「安政南海地震を伝える松茂町の敬渝碑について」『四国大学紀要人文・社会科学編』第37号2012(平成24)
3D
- 中喜来春日神社敬渝碑 (PDF:46 MB)
碑文(現代語訳)
敬渝碑「天変地異をおそれつつしむ」の碑
〔嘉永七年十一月五日、大地震の当日。夕刻における地震の発生。建物の倒壊、火災、地割れと水の噴出、高波の慘状。〕
皇国の嘉永甲寅の年、十一月の五日、日が暮れかかったころのことでした。突如として、山が鳴り、大地がおおいに揺れ動き、立派な建物や民家が数多く倒壊しました。大地はひだのように割れ裂けて、水がしきりに噴き出し、粗末な民家は崩れ落ち、火があっという間に燃え上がります。くれないにかがやく火炎が、天を突かんばかりに数本立ちのぼり、海潮はわきあがって、田畑をおおいつくします。田畑が水に沈み海のようであるさまを見れば、丘が谷に変ずることがあるのを、誰が疑いましょうか。
〔人々が直面した危険と恐怖、苦しみ。〕
火や水を免れることができても、大地が裂け、地下に落ち込むのではないかと気が気ではありません。これに加えて、寒さの厳しさは、肌と骨を刺さんばかりであり、いたるところ、足元には氷がはり、さらには深い水が迫っています。未来の事は、いかんとも準備のしようがなく、寒冷の地獄と灼熱の地獄とが、突如として、眼前に現実のものとなってしまいました。魂は揺れ動き進むことも退くこともできず、たとえ、羽根や翼があったとしても無事ではいられない状況です。空飛ぶ鳥は地におち、駆ける獣もつまずき倒れます。その転がるさまは、まるで、箕でもってあおがれる穀物のよう。たおれふせては、目もくらまんばかり。寒さをしのごうにも布団はなく、腹がすいても食料はなく、ある者は竹林の中に腰をおろし、ある者は船にあがりました。火は盛んとなり、水が増し、地はますます揺れ動くといった具合で、その危険さといったら、何ものにも喩えようがないほどです。
〔地震の翌日。「津波が来る」との流言。山上への避難。〕
明くる六日になると、地震は徐々に小さくなり、人々の心は、苦しみからいくらか解き放たれたようでした。疲れ切った状態の時に、たまたまおかしなことを口にする者がいると、一言の嘘偽りでも、千里の遠くにまで伝わるものです。「白い波が天にあふれんばかりの勢いで寄せてくる」と、でたらめを口にした者がいたところ、村の人々は、綿がひるがえるかのように、驚きあわてました。老人をたすけ、年少者をつれて、波を避けようと、つぎつぎと山に向かい、櫛の歯のように連なり歩きます。戸口は開け放したままで、誰もとどまる者はなく、無数の村落で、煮炊きの煙がたちのぼらなくなりました。神社と仏寺、それに小山には、烏や蟻もさながらに何千、何万という人がひしめき集まりました。粥や握り飯の炊き出しを行う者がいて、いくらか空腹をまぎらすことができたとは、実にかわいそうな状況でした。
〔数日後、津波から退避していた山上からの帰還。家を失った生活。余震の継続。〕
山にとどまること数日の間、まるで夢まぼろしを見ているかのように正気を失っていましたが、ふっとわれに返り、そこでやっと帰還することができました。帰りはしたものの、どの家も傾いており、屋外で寝起きし、草を枕にするという状況はそのままです。十二月の三十日に再び大きく揺れ動き、余震は年を越しても、依然としておさまりませんでした。
〔諸国の被害状況。〕
土佐から相模に至るまでの千里強にわたる範囲で、沿海の漁港や村落において、家を流され、流亡することになった人々は、とても、記録しつくせないほど。海上にあった商船が、破壊された状態で岡にうちあげられ、十人でやっと抱えるほどの松や杉の巨木が、引っこ抜かれた状態で海に浮かんでいます。遠江・三河・駿河の三国は、東海に臨む地域であり、三日にわたって旅するその間、温かい食事を口にできませんでした。湖北・湖南の諸州は荒廃し、大坂では、船で命を落とす者が千人を数えました。家を失い財産を失い、数多くの人々がちりぢりとなってしまったのです。
〔徳島藩における地震への対応。〕
真実ではありませんか。「徳は必ず、災害に打ち勝つ」とは。ことわが徳島藩の領内では、死傷者は少なかったのです。災害異変がこのように、いくらかありはしましたが、思いやりと洞察力とを兼ね備えた君主が上にあって、すぐれた人物を任用されました。役人たちが広く賑恤を行い、恵んでくださったものはといえば、農具と漁具、それに食料といった諸々です。
〔このたびの地震を、「安楽に耽ってはならない」という天からの戒めとして受け止め、おそれつつしむべきこと。〕
どうかご覧なさい。万国の東の端に位置し、太陽がまずはじめに照らし、光り輝く皇州にして、神の領域であるこの地を。(この地がそうした特別な神の地であることからしてみると)神がこうして戒めを賜ったのは、意図があってのことなのです。「楽しみに耽り、なまけていると、わざわいを引き起こすことになりますよ」というのが、神が与えられた戒めの意図でしょう。朝議の結
果、「安政」という年号が新たに宣布され、(新たな年号の「人民が政治に安んず」という趣旨に見られるとおり)国家は、「民に親しむ」という基本方針を大いに広げようとしています。やわらぎ楽しむ君子は、父母も同然に人民をいたわりおさめ、欠けることなく、崩れることなく、永遠に祝福を受け続けられることでしょう。
安政三年、丙辰の年、一月上元の日。夢巖觀が碑文を著し、字を書く。新居謙が篆書で額に題する。三木与吉郎光治が建立する。石工の桑島治右エ門が彫り刻む。
参考文献
徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集
問い合わせ先
徳島県教育委員会教育文化課