文字サイズ

やさしいブラウザ・クラウド版はこちらからご利用下さい

とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

沖洲蛭子神社百度石

おきのすえびすじんじゃひゃくどいし

所在地

徳島市南沖洲

キーワード

安政南海地震の教訓

国登録記念物(2017年10月13日登録)

概要


建立年月日:1861(文久元)年9月
〔2003(平成15)年3月3日移転〕
対象地震名:安政南海地震
国登録記念物(2017年10月13日登録)
石材:砂岩
本体の高さ:120センチメートル,残存部の幅:27センチメートル, 厚さ:26.5センチメートル。
台石の高さ:4センチメートル,幅:46センチメートル,奥行き:44.5センチメートル。
(碑の立地と形状)
国道11号線,55号線と国道192号線の交差点を東へ進み,沖洲橋を渡ると道の北側に「蛭子神社」の看板が見える。ここは県道38号線を拡張する前に蛭子神社があった場所(北沖洲1丁目3番地)で,工事に伴って南東方向に移転し,現在の場所に移ってきた。県道から少し南へ路地を入るため場所はわかりづらい。目的の碑は神社入口の鳥居の左脇にある。旧神社の写真を見ても位置関係は同じである。
碑は砂岩製で頂部が丸味を帯びた角柱である。「百度石」と彫られた面を正面とすると,両側面は全面的に剥落している。背面は文字が残存しているが,上端などモルタルで補修した痕がある。表面にひび割れも目立つことから,一度全面的に剥落したものを接合した可能性が高い。下部は剥落して,文字が欠落している。碑本体は高さが120センチメートル,残存部の幅27センチメートル,厚さ26.5センチメートルで,高さ4センチメートル,幅46センチメートル,奥行き44.5センチメートルの台石の上に建っている。
(碑文の内容)
 『阿波に於ける地震の研究』(長江1936)に,拓本が掲載されている。これをもとに,『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』(木村他2002)では,碑文を復元している。これによると,嘉永7年11月5日大地震があり,人々は木竹の中へ駆け込んだ。津波がくると聞いて,船に乗ったものは危うく助かった者もいれば,転覆して命を失う者もいた。船には乗るべからず。家が潰れて炬燵,竈より火がおこり,多くの家が焼けた。このような時は心を静めて火の元に気をつけることが肝要である。百年が経るうちに同様の地震と津波が有ると聞くので,氏神の廣前に百度石をたてるついでにそのことを記す。1861(文久元)年9月吉日。「阿州奇事雑話」によると,蛭子神社は,かつて小松島沖にあり地震で海中に没したとされる御瓶千軒にあったと言われている。
徳島市の南西に隣接する名東郡佐那河内村の長願寺に,安政南海地震に関して書かれた扁額がある。蜂須賀家の家老であった賀島氏の家臣,岩本賛庵による漢詩文である。地震に際して,徳島城下や小
松島で火事が起き,数千戸が消失したことが記されている。なお,後世の人が忘れないように,戸板で扁額を作って廊下に掲げたとある(第191図)。
(参考文献)
長江正一『阿波に於ける地震の研究』1936(昭和11)巻頭・P.2・P.40注(20)
「阿州奇事雑話」『新編阿波叢書(上巻)』1976(昭和51)PP.84-85
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.79-81
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)P.70
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』
教育出版センター2002(平成14)

石碑
蛭子神社
石碑
正面
 
石碑
碑文(背面)

3D

画像をクリック(外部リンク)

碑文(現代語訳)

嘉永七(一八五四)年十一月五日に大いに地が震い、人々はうろたえて木竹の根が絡んだ中へ駆け込んだ。津波が来ると騒ぐ声に驚いて船に乗ったものは押し流されて、危ないところを助かった者もいれば転覆して命を失う者もいたので、必ず船には乗ってはならない。家が潰れて、「こたつ」や「かまど」から火が起こり、多くの家や蔵が焼けた。
このような時は、心を静めて火の元に気をつけることが肝要である。百年のうちにこのような地震と津波があると聞くので、このたび氏神の御前に百度石を建てるおりに、そのことを記す。文久元(一八六一)年九月吉日

拓本(背面)

拓本

参考文献

徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集

問い合わせ先

徳島県教育委員会教育文化課

© 2001-2019とくしま歴史文化総合学習館「レキシル とくしま」(徳島県立埋蔵文化財総合センター)