椿八幡神社常夜燈
つばきはちまんじんじゃじょうやとう
所在地
阿南市椿町浜
キーワード
安政南海地震の記録
国登録記念物(2017年10月13日登録)
概要
「椿八幡神社常夜燈」
所在地:阿南市椿町浜1番1
建立年月日:1856(安政3)年8月14日
対象地震名:安政南海地震
指定の有無:無
石材:花崗岩
台石の高さ:33センチメートル,幅:100センチメートル,奥行き:100センチメートル。
(碑の立地と形状)
阿南市福井町大西の交差点を東へ折れて国道55号線から県道26号線に入り,蒲生田岬方面へ向かう。椿地川沿いをしばらく走ると,河口に近づいたところで椿泊と蒲生田との分岐点となる橋が見えてくる。南へ曲がって蒲生田方面へ向かう橋を渡ると,正面に神社の鳥居が見えてくる。鳥居の両脇に常夜燈が立っている。その台石に安政地震時の状況が刻まれている。左右の常夜燈は,ほぼ同じ大きさである。
(碑文の内容)
八幡宮の御前に大松があったが,1846(弘化3)年9月2日の夜に大風で倒れた。1854(嘉永7)年11月4日午前8時頃に地震あり,高潮が土提を越えて川筋の奥手まで上ったので,恐れて備えたがその日は何もなかった。翌5日は天気快晴で午後4時頃に大地震があった。午後6時頃,潮かさ見上げるばかりに来たので,老人を助け幼児を携え,牛馬,器財をもって逃げた。午後10時頃に大いに揺れた。流れた家9軒,浸水した家18軒,砂石が堆積した田30余町である。
(参考文献)
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.72-74
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)PP.74-75
3D
- 椿八幡神社常夜燈(神社に向かって右側) (PDF:54 MB)
- 椿八幡神社常夜燈(神社に向かって左側) (PDF:54 MB)
碑文(現代語訳)
古き代より、ここに祭られる八幡宮の御前に大松があった。幹の周囲六メートルあまり。根際より一の枝までは約七・二メートル。高さ五十四メートルあまりだったので、あちらこちらでこれを称賛して国内で無類の大木と申していたところ、去る 弘化三(一八四六)年九月二日の夜の大風で倒れてしまったのは、たいそう惜しいことであった。
嘉永七(一八五四)年十一月四日の午前十時頃に地震があり、高潮が浜の土堤を越え、川筋の奥手まで上がったので、人々は津波が再び来ることを恐れた。私はその備えをしたが、海上は静かになり、その日は何もなく暮れた。翌五日の天気は快晴で午後四時頃に大地震があり、樹木が動揺して山谷に響きわたり、西の方角がしきりに鳴って止まなかった。午後六時頃になって、潮の高さが見上るばかりに来たので、若者は老人をたすけ幼児を携え、ある者は牛馬を駆け、家財をかつぎ、各々が様々にあわてて奔走し、騒動は言葉に尽し難い。ようやく山に登って村内を見おろせば、香の谷や中村までの一面が、しばらくの間、海となった。なお、その中も震動が絶えず、午後十時頃に大に揺れた。諸人はまた、潮の変化があることを心配して、わずかの間も安心せず、かつ昼より何も食べていないので、皮膚を侵す寒風もまた凄まじく覚え、一夜千宵の思いをしてその夜を明かした。およそこの時の変で壊れたものは、堤や板橋は言うまでも無く、流れた家九軒、浸水した家十八軒。泥や土が流されて、砂石が堆積した田は三十町あまりにおよぶと言う。
今思えば、これほどの大変にもかかわらず、氏子共の身が無事だったことは、この御神のおかげであり、かの巨松が諸人の身代わりになってくれたためである。ここに池内清壽、武田嘉矩等が志を起し、永く神徳の威霊を輝かせたいとして、一双の常夜燈を造献しようと話し合ったところ、皆これを喜んで助力した。事が既に完成するに及んで、下の方にこのことを彫って、千歳不朽に伝えたい。玉置梅翁が謹しんで申し述べる。
- 椿八幡神社常夜燈-右 (PDF:25 MB)
- 椿八幡神社常夜燈-左 (PDF:25 MB)
参考文献
徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集
問い合わせ先
徳島県教育委員会教育文化課