熟田峠地蔵尊
ずくだとうげじぞうそん
所在地
海部郡海陽町大里字小屋ヶ谷
キーワード
安政南海地震の記録
国登録記念物(2017年10月13日登録)
概要
建立年月日:不詳
対象地震名:安政南海地震
国登録記念物(2017年10月13日登録)
石材:砂岩
本体の高さ:51.8センチメートル,幅:21.7センチメートル,厚さ:21.3センチメートル。
台石の高さ:22.1センチメートル,幅:37センチメートル,奥行き:37センチメートル。
(碑の立地と形状)
国道55号線を南下し,国道沿いに建つ浅川小学校を過ぎると,浦上川と国道が交差する。その川の北岸を西へ折れ,川の上流へ進むと岩神神社のまえに「ずくだ道」の道標がある。それにしたがって海南第一トンネルを抜けると,熟田峠はその上にある。トンネルのすぐ脇には山道が見えるのだが,浅川と熟田の庚申堂を結ぶ約3kmのこの山道が,「ずくだ道」と呼ばれているのである。『阿波の峠と民俗』(橘2014)によれば,熟田の庚申堂はこの地域の庚申信仰の中心地であり,年6回の庚申の日には,蟻の庚申詣りといわれるほど参拝者の行列が続いていたという。
車道から50mほど山道を登ったところに大木がある。その根元に覆い屋が建てられて,3体の地蔵尊が安置されている。目的の地蔵尊は右端にある。砂岩を角柱状に成形し,正面に地蔵尊が浮き彫りされている。蓮台に乗り,手には蓮のつぼみを持っている。正面から見ると,高さ22.1センチメートル,幅37センチメートル,奥行き37センチメートルの台座に,高さ51.8センチメートル,幅21.7センチメートル,奥行き21.3センチメートルの地蔵尊の本体が乗っている。右側面下部の奥の角は割れており,破片を差し込んで合わせた状態である。表面は砂粒が浮いており,風化が進行している状況が見える。この左右の側面に,碑文が刻まれている。
(碑文の内容)
正面向かって右側面から文章が始まっている。宝永の地震より嘉永7年まで148年目である。嘉永7年11月4日の午前8時頃,晴天で海上波静穏,時節に背いて暖かいところに地震があり,津波が町に溢れ込んだ。翌5日午後4時頃に大地震があり,約9mの大津波が襲来した。人々はあわてふためき山へ逃げ登ったが,海辺の人家が流失し,野原と化した。
この碑文において,冒頭の「宝永度より嘉永七年寅年迠百四十八年目なり」,「諸人周章あへり山上へ迯登り」の表現は,浅川千光寺の扁額の記述を参考にしたものと考えられる。づくだ道を通じて浅川からの参拝者に向けてのものであると推定される。最後に「施主大里村銀兵ヱ」とある。「大里村」は1889(明治22)年に合併により消滅したため,それ以前の建立と推定される。
(参考文献)
海部郡誌刊行会編『海部郡誌』1927(昭和2)P.303
徳島県経済部林務課『阿波海嘯誌略全』1936(昭和11)P.13※河東村史によると「熟田越坂峠坂瀬川路傍に建設しある坂瀬川地蔵尊石仏」
長江正一『阿波に於ける地震の研究』1936(昭和11)P.4
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.59-60
海南町・海南町史編纂委員会『海南町総合学術調査報告書第二編』1992(平成4)PP.65-66P.73(2)熟田道
『峠の石造民俗』徳島県文化振興財団民俗文化財集第17集2000(平成12)P.92
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)P.85
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』教育出版センター2002(平成14)PP.74-76
橘禎男『阿波の峠と民俗』徳島県文化振興財団2014(平成26)PP.4-5
3D
- 熟田峠地蔵尊 (PDF:26 MB)
碑文(現代語訳)
宝永(四年)より嘉永七年まで百四十八年目である。
時に嘉永七(一八五四)年十一月四日午前八時。晴天で日柄もよく、海上の波は静穏であった。暖気をもよおす事が、時候に背いていた。そうこうしているうちに、天地が震動し津波が町中へあふれ込んだ。また、翌五日の午後四時頃に大地震があり、高さ九メートルあまりの津波が山のように押し寄せた。人々は、あわてて山上へ逃げ登った。海辺の人家は流失し、野原となった。
施主大里村銀兵ヱ
参考文献
徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集
問い合わせ先
徳島県教育委員会教育文化課