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とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

浅川観音庵地蔵尊台石

あさかわかんのんあんじぞうそんだいいし

所在地

海部郡海陽町浅川字イナ

キーワード

宝永南海地震の記録・供養

国登録記念物(2017年10月13日)

概要

浅川観音庵

国道55号線沿いに立つ浅川小学校の前の交差点を東へ入ると,浅川の町並みに入る。道なりにしばらく進むと,左前方に小高い山が見えてくる。山の斜面に階段が設置されている。階段の麓に立つと,斜面に砂岩製の石標が2カ所に建っているのに気づく。階段の13段目の石標には「南海地震津浪襲来地点」,25段目には「安政津浪襲来地點」と刻まれている。それぞれ昭和,安政南海地震の津波の高さを示していると考えられる。
石標を過ぎて階段を登ると,中腹の広場に出る。階段を登り切ったすぐ脇に小さな祠があり,その正面左側に比較的最近に建てられた碑がある。祠の正面には扁額が掛かっており,中を覗くと地蔵尊が安置されている。ここで注目されるのは地蔵尊の台石で,宝永地震津波の被害について記述されたものである。正面の扁額は,1938(昭和13)年にこの台石の記述を写したものである。祠の左側には「宝永ノ津波」と題した碑がある。1999(平成11)年に海南町によって建てられたもので,台石の内容を写したものである。

浅川観音庵地蔵尊台石

建立年月日:1712(正徳2)年7月
対象地震名:宝永南海地震
国登録記念物(2017年10月13日)
石材:花崗岩
碑の高さ:57.5センチメートル,幅・奥行き:60センチメートル。
(碑の形状)
地蔵尊の台石は六甲山系に代表される御影石(花崗岩)製で,幅と奥行き共に60センチメートルで,高さ57.5センチメートルの角柱である。台石の下半分は祠の床面に埋まっている。正面のみ床板が外れるようになっているが,側面は上半分しか見えない。地蔵尊本体は砂岩製で高さ95.5センチメートル,幅32センチメートル,奥行き16センチメートル。蓮台の径38センチメートル,高さ19センチメートルで向かって右側面下部の一部が剥落している。
(碑文の内容)
正面には,宝永4年10月4日晴天で暖かい日,午後2時頃大地震暫く有り。揺れの後,約9mの大汐が浦上村カラウト坂の麓まで上る。汐が引いた後,千光寺の堂のみ残る。老若男女140人余りが溺死した。亡者菩提のためこの石像の地蔵一体を供養致し安置し奉るものである。左側面には,1712(正徳2)年7月。寄進施主,願主の名前が記されている。
観音庵の由来について書かれた扁額が庵の中に置かれている。1242年に浅川竹の内里に建立され,1647年に現所在地に移ったとある。これは昭和57年に書かれたものである。
(参考文献)
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.42-43
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)P.87

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観音庵全景
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地蔵尊全景
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地蔵尊台石の碑文

3D

石碑
画像をクリック(外部リンク)

碑文(現代語訳)

 宝永四(一七〇七)年十月四日は、晴天で暖かい日であった。その日の午後二時頃、にわかに大地震があり、しばらく揺った。揺れが終わった後に、大海より高さ九メートルばかりの津波がさし込み、浦上村カラウト坂の麓まで上がり、即刻の引潮で、浦の中では千光寺の堂が一つのみ残った。

南無阿弥陀佛
それまであった家は、一軒も残らず海底に引き落とされた。なお、流出した老若男女百四十人あまりは、ことごとく溺れ死んだ。これにより、右の亡者の菩提のため、この石像の地蔵菩薩一体を供養し、安置し奉るものである。
 

拓本

参考文献

徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集

問い合わせ先

徳島県教育委員会教育文化課

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