文字サイズ

やさしいブラウザ・クラウド版はこちらからご利用下さい

とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

康暦の碑

こうりゃくのひ

所在地

海部郡美波町東由岐字大池

キーワード

正平南海地震の伝承

町指定有形文化財(考古資料)1957年5月8日指定

概要

建立年月日:1380(康暦2)年11月26日(『三岐田町史』による)
対象地震名:正平南海地震か
石材:砂岩(本体・台石とも)
本体の高さ:156センチメートル,幅:63センチメートル,厚さ:10センチメートル。
台石の高さ:40センチメートル,幅:157センチメートル,奥行き:73センチメートル。

(碑の立地と形状)
由岐の街並みを東西に分ける通称「大池」と呼ばれる入江の東側,東由岐の山腹に「康暦の碑」が大池に向かって建っている。イヤ谷の沢に沿って山道を登ると,その両脇には小区画の段々畑が続く。その段々畑の一つに康暦の碑が所在する。段々畑の平坦面と上の畑に続く斜面の変換点に位置するため,碑の前面は小さな広場になっている。

碑本体は,高さ156センチメートル,幅63センチメートル,厚さ10センチメートルの砂岩の板石で,高さ40センチメートル,幅157センチメートル,奥行き73センチメートルの砂岩の台石の上に建っている。正確には,台石にほぞ穴をあけて碑の下部を差し込み,隙間をモルタルで固定している。さらにその下には,コンクリートで固められた石垣が築かれている。

(碑文の内容)
板碑と同様に上部には三種の梵字(釈迦三尊)が彫られているが,先端部が欠損しているため,中央の梵字は確認出来ない。三種の下には僧や武士のものと思われる,約70名分の名前が8段に分けて列記されている。現在,下部は欠損し文字は確認できないが,「四季供養」「造立塔婆」「書写□経」「康暦二庚申霜月廿六日」の文字があったといわれている。康暦は北朝年号である。ちなみに,「西の地貞治碑」の貞治も北朝年号である。

(研究史からみた康暦の碑)
「康暦碑」は,日本最古の地震津波碑として知られているが,碑文には地震や津波に関する記述はない。
最初にこの碑に言及したのは,『阿波志』である。1815(文化12)年,阿波藩の儒者佐野之憲が各地の伝承をまとめたもので,笠井藍水により1931(昭和6)年に『阿波誌』として活字で出版された。巻12海部郡の「塚墓」の項に,「康暦碑由岐東浦に在り康暦二年庚申十一月十六日海飜て震トウす死亡甚だ多し此に合葬す」とある。また,同巻の「山川」の項には,「雪池東西由岐村の間に在り康安元年地大に震ひ海湧き闔村蕩盡す(中略)地裂け池と為る長さ二百二十歩徑百歩太平記に見ゆ」とある。『太平記巻第三十六』を見ると,康安元年六月十八日大地震起こり,「阿波の雪湊と云う浦には俄に大山の如き潮漲り来たりて在家千七百余宇悉く引汐に連れて海底に沈みしかば家々に有る所の僧俗男女牛馬鶏犬一つも残らず底の藻屑と成りにけり」と書かれているのみである。「雪池」がこの地震によってできたことは,『阿波志』の時代の伝承と考えられる。

 1913(大正2)年,小杉榲邨による『阿波国徴古雑抄』では,「海部郡東由岐浦字イヤ谷康安怒濤碑銘」と題して碑文が紹介されている。ここでは,「右ノ碑,摩滅不分明ノ上ニ,半ヨリ折テ,下ノ方ハタブノ木ニ包マレタリ」とあり,この時点で既に碑の下部が折れ,表面は摩滅して文字が不明瞭であったことがわかる。

1925(大正14)年の『三岐田町史』では,田所眉東が拓本により碑文を確認し,現在知られている碑文の基となった。

 1927(昭和2)年の『海部郡誌』では,「康安地震の供養碑」として詳しく記述されている。康安元年の震災に遭難した者を供養する為に,「康安元年より二十年の後,即ち康暦二年に大きな石塔婆が造立した」と解釈した。しかし,「此碑に就いては未だ充分なる調査研究が出来ていない」とも認識している。この時の碑の状況は小杉の記述より詳細で,「折れて四ツに分離せられ,下部の二個が半ばタブの木に包まれて居り,先端と中央部の二個が其前にあって,同じタブの木にたてかけられてある」。「復元すれば高さ八尺五寸,幅二尺餘。上部に至るほど狭くなり,先端は急角度の山形をなしている。厚さは三寸内外である」,「石質及び岩肌の状態より考察すれば,此石は宍喰竹ヶ島産の砂岩で,人工で割った痕跡は少しもない」とする。竹ヶ島の海岸には,現在も砂岩の板石を切り出した跡が残っており,干潮時には矢穴の列が確認できる。美波町では,このような板石を産出する場所は知られていない。
碑文については,上部の「三尊梵字は此時代に吉野川沿岸で盛行した板碑に普通刻せられているもので,其書体及び彫り方の手法等全く板碑に見るものと同様である」という。人名については,『阿波国徴古雑抄』と『三岐田町史』を融合したものとした。下部の意趣書と年号については,文字列の中央で碑が割れていたため,それまでの釈文では上部の「二季」「造立」「書寫」の2文字のみ判読出来ていたが(小杉1913),ここでは「四季供養」,「造立塔婆」,「書寫□經」と読み,この碑の建設が,「経文を書寫して埋め四季供養をした」と解釈した。年号については破片が木の株に巻き込まれ,「現在では全く見えなくなって居る」という。そして最後に,「現在では震災の碑であると云ふ伝説は残っておらぬが,既に阿波志に記され且つ此碑の位置,人数の多数,等に依り合し考へれば此碑が康安元年震災罹災者の供養碑である事は先づ確實であらう」と締めくくられている。
なお,この碑については「黄金が眠っていると云う説」が世間に流布されていた。「黄金千両有明の月」と彫られていると新聞に投稿され,「欲な連中が大に詮索した」とも記述されている。

 1950(昭和25)年に,笠井藍水によって書かれた『三岐田町郷土讀本』では,昭和9年頃に現在のように台石の上に建てられたこと,下部の折れた2片はタブにつつまれ十分に見られないこと,先端の折れた部分は失われていることが報告されている。また,この時の調査で碑の先端を発見したが,別個体と判明し,もう一つ別の板碑が存在していた事を示唆している。なお,笠井自身はこの碑が地震津波碑とすることについて「確證がある訳でなく,却て多少の疑点もある」と評価している。また,京都市の川勝政太郎に鑑定を依頼した結果,「大勢の人名はこの四季供養のための塔婆を造立し写経供養した人たちの連名でありませう(中略)康安の地震に積極的に結ぶ確證なく,これも一応は普通にこの人達が善根のため造塔写経したその具体的な記念物と見る」としている。

 1984(昭和59)年に森本嘉訓氏が,『ふるさと阿波』において康暦碑について論じている(森本 1884a,b,c)。研究史については由岐町(当時)西の地の泉由幸氏がまとめた資料をもとに記述している。これによると,1934(昭和9)年に泉氏の発案で観光用に現在のように再建したとのことである。この時,タブの木を削り年号を確認したという。また別の板碑の頂部を発見したとも書かれている。これが,笠井が『三岐田町郷土讀本』で発見した板碑を同一かどうかは不明である。1982(昭和57)年の猪井達雄氏,澤田健吉氏,村上仁士氏による『徳島の地震津波-歴史資料から-』を経て,康暦碑を正平南海地震に関連する碑とする評価が一般的になったと考えられる。

 最後に,大池から出土した遺物について紹介する。昭和50年代に行われた浚渫工事に伴って,掘削土に土器片が含まれていることが知られていた。さらに,潮干狩り中に「宋銭」27枚が発見されたという報道がなされた。これらについての詳細は別の機会に譲るが,土器は「楠葉型」もしくは「和泉型」瓦器椀で,概ね12世紀から13世紀代のものである。「宋銭」のうち最新銭は,やはり13世紀代の南宋銭(皇宋元宝)であった。この他に,古墳時代後期の須恵器片が1点含まれていた。『太平記』に記述のある正平南海地震の時代の土器は含まれていないが,それ以前の雪湊の繁栄を示す可能性のあるものとして記載しておく。

(参考文献)
『太平記巻第36』日本古典文学36岩波書店1962(昭和37)
佐野之憲『阿波志』1815(文化12)
小杉榲邨編『阿波国徴古雑抄』日本歴史地理学会1913(大正2)PP.258-259
三岐田町役場編『三岐田町史』1925(大正14)PP.103-107,223-225
海部郡誌刊行会編『海部郡誌』1927(昭和2)PP.
笠井藍水『三岐田町郷土讀本』1950(昭和25)PP.7-9・48-49・P.24・60
※「康安の地震に積極的に結ぶ確證なし」
笠井藍水『阿波誌』1931(昭和6)「雪池」P.449「康暦碑」P.477
徳島県経済部林務課『阿波海嘯誌略全』1936(昭和11)P.1
長江正一『阿波に於ける地震の研究』1936(昭和11)P.11-13※「阿波郡村誌東由岐の條」に阿波志の引用有り。
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.27-31
森本嘉訓「康暦の碑(板碑)について(上)」『ふるさと阿波』1181984a(昭和59)
森本嘉訓「康暦の碑(板碑)について(中)」『ふるさと阿波』1201984b(昭和59)
森本嘉訓「康暦の碑(板碑)について(下)」『ふるさと阿波』1211984c(昭和59)
由岐町史編纂委員会編『由岐町史』1985(昭和60)P.319
宍喰町教育委員会編『宍喰町誌下巻』1986(昭和61)PP.2036-2037
阿波学会編『総合学術調査報告海部町郷土研究発表会紀要』第33号1987(昭和62)PP.312-313
由岐町史編纂委員会編『由岐町史図説・通史編』1994(平成6)PP.56-57
石川重平「由岐町の石造文化財」『総合学術調査報告由岐町阿波学会紀要』第40号1994(平成6)PP.235-240
徳島地方気象台編『徳島県自然災害誌』徳島県1997(平成9)P.4
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)PP.78-79
由岐町教育委員会『由岐町郷土事典』2004(平成16)PP.28-29
『企画展描かれた地震解説書』徳島県立博物館2011(平成23)P.40
美波町教育委員会『美波町歴史散歩』2014(平成26)P.86

石碑
全景
石碑
正面
 
石碑
左側面

3D

画像をクリック(外部リンク)
石碑

碑文(現代語訳)

碑文(現代語訳)を入力

拓本

参考文献

徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集

問い合わせ先

徳島県教育委員会教育文化課

© 2001-2019とくしま歴史文化総合学習館「レキシル とくしま」(徳島県立埋蔵文化財総合センター)