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とくしま歴史文化総合学習館(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

レキシルとくしま

浅川天神社石碑

あさかわてんじんしゃせきひ

所在地

徳島県海陽町浅川字大田

キーワード

安政南海地震の記録

国登録記念物(2017年10月13日登録)

概要

浅川天神社

国道55号線が伊勢田川と交差する橋の南西側,県道196号線沿いに天神社がある。伊勢田川の河口部に位置する。この神社は『阿波志』に慶長地震の津波によって社殿が罹災したと記述があり,後世に現在の位置に移転してきたと考えられている。もとの神社は伊勢田川の対岸の丘陵下にあったとされ,天神前という地名が残っている。現在は丘陵を登ると頂上の平坦面は広場になっており,忠魂碑が建っている。この神社には対象となる2基の地震津波碑と,津波によって折損したと伝承される鳥居の破片が所在する。

浅川天神社石碑

建立年月日:1867(慶応3)年4月
対象地震名:安政南海地震
国登録記念物(2017年10月13日登録)
石材:(本体)砂岩,(台石)花崗岩
碑の全高:181センチメートル。本体の高さ:134センチメートル,幅:81センチメートル,厚さ:20センチメートル。台石の高さ:37センチメートル,幅:90センチメートル,奥行き:63センチメートル。

(碑の立地と形状)
天神社の入口の階段を登り本殿の左脇へ進むと,植え込みの間に碑が建っている。高さ134センチメートル,幅81センチメートル,厚さ20センチメートルの砂岩製で,碑の上に庇状の板石を組み合わせている。安政南海地震の13年後の,1867(慶応3)年に建立されたものであるが,記述からは建立意図はわからない。浅川にある安政地震の碑の中では,最も古いものである。

(碑文の内容)
安政元年11月4日午前8時地震暫く揺り,午前10時頃汐狂う。人々山上に荷物を運び,その夜を明かす。翌5日晴天雲風無く,日輪朧の如く,暖なること3月の如しで,山上に荷物を運ぶ者もあれば,事が済んで気が緩み荷物を持って降りる人もいて,まちまちである。午後4時に大地震があり,高さ9mの大汐が矢のような早さで来た。浦上カラウト坂麓まで。いせだ戸や山の神関まで上る。天満宮,大歳御﨑神社,浦三ヶ寺残る。西ノ奥東谷人家ことごとく流失したが,用心していたため,けが人なし。
永正,慶長両度あり。宝永4年10月4日稲観音堂石像地蔵尊に記あり。宝永度まで百年前後なれど,この度は148年目なり。後年に寒暖時候に背き,大地震が揺ったときは油断するべからず。後世のためにこれを建てるものなり。
この碑文の前半部分は,前述した千光寺扁額及び浅川御﨑神社石碑(旧碑)と共通する表現が多い。例えば「天雲風なく日輪朧の如く」,「前日の変ニて事済しと思いまちまちなる」など。最後には過去の津波にふれて,その間隔について記述している。特に,宍喰以外に被害について書いたものがない,「永正」の津波にも言及していることも注目される。これらのことから,この碑文は1861(文久元)年の千光寺扁額が元になった可能性が高い。よって,千光寺→天神社の順で碑文を参考にし,作成されていったことがうかがえる。ただし,千光寺から天神社へは完全に写された訳ではなく,多くの相違点があり,参考にした程度と考えられる。大きな相違点を挙げると,年号は千光寺は「嘉永七」であるが,天神社は「安政元」。千光寺では「死人弐人」であるが,天神社は「村中怪我人なし」となっている。

(参考文献)
海部郡誌刊行会『海部郡誌』1927(昭和2)P.305
長江正一『阿波に於ける地震の研究』1936(昭和11)P.4
猪井達雄,澤田健吉,村上仁士『徳島の地震津波-歴史資料から-』徳島市民双書16徳島市立図書館1982(昭和57)PP.57-59
海南町『南海地震津波の記録宿命の浅川港』1986(昭和61)P.67
木村昌三,小松勝記,岡村庄造『歴史探訪南海地震の碑を訪ねて』毎日新聞高知支局2002(平成14)P.86

石碑
前面
 
石碑
背面

3D

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碑文(現代語訳)

 時に安政元(一八五四)年十一月四日午前八時頃に、地震がしばらく揺り、午前十時頃に潮が狂い町中へあふれた。

人々は驚いて山上へ荷物を運び、あわてて逃げ登った。それより後は(津波に)心を配り、その夜を明かした。

翌五日は晴天で雲も風もなく、日の光が朦朧(もうろう)として暖かい事が三月頃のようなので、いぶかしく思い山の上へ荷物を持ち上げる人もいた。

また、前日の地震や津波で事がすんだと思う人もいて、まちまちであった。

午後四時頃に大地震があり、しばらく揺った。揺れが終わった後に、大海より高さ九メートルばかりの津波がさし込み、その早い事は矢を射るようであった。

(津波は)浦上カラウト坂の麓まで、いせた、戸や、山の神関まで登り、その夜は津波が何度も押し寄せた。

天満宮、大年神社、御﨑神社の三社ならびに浦の三つの寺は残った。

その他の家は流失し、村分、西ノ奥、東谷の人家はことごとく流失したが、用心していたので村中に怪我人はなかった。

(過去に津波は)永正と慶長に二度あった。また、宝永四年十月四日は稲観音堂石像地蔵尊に記述がある。

(慶長から)宝永まで百年前後であったが、今回は百四十八年目である。よって、後年に寒暖が季節に背き大地震が揺る時は、必ず油断してはならない。

後世の心得のため、これを建てるものである。

拓本

新碑

建立年月日:1994(平成6)年11月4日
対象地震名:安政南海地震
石材:花崗岩
碑の形状:縦長の長方形
碑の全高:168センチメートル,本体の高さ:140センチメートル,幅:76センチメートル,厚さ:20センチメートル。
台石の高さ:28センチメートル,幅:114センチメートル,奥行き:53センチメートル。
現在の新碑は,天神社の階段を登って右側の隅にある。背面の碑文から,新碑は旧碑に並んで建てられたが,その後現在の位置に移動したことがわかる。

石碑
新碑

浅川天神社折損鳥居

建立年月日:不詳
対象地震名:慶長南海地震
石材:花崗岩
本体の高さ:69センチメートル,幅:38センチメートル,厚さ:34センチメートル。台石の高さ19センチメートル,幅・奥行き:86センチメートル。

(碑の立地と形状)
『阿波志』によると,天神社は慶長の津波(1605年か)により罹災。『海部郡誌』では,「神社明細帳」を引用し,神社が1583(天正11)年に創建され,1633(寛永10)年9月25日に現在の位置に移転されと記述されている。この折損鳥居の横に設置された説明板には,旧社殿跡から出土したと伝えられていることが書かれているが,詳細は不明である。旧社殿があったと伝えられる場所は現在も天神前の地名が残っており,この折損鳥居は住宅の建設時に出土したという。

(参考文献)
佐野之憲『阿波志』1815(文化12)
海部郡誌刊行会編『海部郡誌』1927(昭和2)P.306
笠井藍水『阿波誌』1931(昭和6)「天神祠」P.448
中川健次『南海道地震津波阪神・淡路大震災被災地からのメッセージ記念碑・モニュメントから』教育出版センター2002(平成14)P.71

石碑
折れた鳥居の一部

参考文献

徳島県教育委員会編2017『南海地震徳島県地震津波碑調査布告書』徳島県埋蔵文化財調査報告書第3集

問い合わせ先

徳島県教育委員会教育文化課

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