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文化

阿波踊り

400年の歴史を持ち世界にもその名を知られる阿波おどり。その起源については、いろいろな説があります。
盛んに踊られるようになったのは、徳島藩祖・蜂須賀家政が天正14年(1586年)に徳島入りし、藍、塩などで富を蓄積した頃からといわれ、その後、藍商人が活躍し、年を重ねるごとに阿波おどりを豪華にしていきました。
そこから阿波おどりは市民社会にも定着し、自由な民衆娯楽として花開き、特に戦後は復興の象徴として目ざましく発展していきました。

このような歴史を経て、阿波おどりは今では日本を代表する伝統芸能として世界にも知られるようになっています。
なお、現在の阿波おどりは、毎年8月9日に開催される「鳴門市阿波おどり」を皮切りに徳島県内各地で開催されますが、最も賑わいを見せるのが毎年8月12日から8月15日の4日間開催される徳島市の阿波おどりです。

阿波人形浄瑠璃

阿波人形浄瑠璃は、徳島県の各地に伝承されている義太夫節(ぎだゆうぶし)による三人遣い(さんにんづかい)の人形芝居です。かつては、各地の神社の境内に建てられた農村舞台で祭礼などとして上演されてきました。

阿波人形浄瑠璃の大きな特徴として、人形の首(かしら)の大型化があげられます。これは明治の初めから中頃にかけて、農村舞台での効果を考えて加えられた工夫と思われます。さらにこの首の使用につれて、それを生かした大振りな人形操作による独自の演出法も生まれました。そして、西日本の代表的な人形浄瑠璃として発展し、周辺地域の人形浄瑠璃にも影響を与えてきました。

農村舞台

阿波農村舞台が建設され始めたのは幕末期のことといわれています。
村の鎮守の神社では、豊作祈願や豊作感謝の祭りが行われ、農民は供え物に加え歌や踊りなどの芸能を奉納していました。
この奉納芸が、盆踊りから人形芝居に移行し、農民は自分たちで人形操りを稽古する練習場所として、村の共有地である神社の境内に農村舞台を建設しました。

阿波人形浄瑠璃の大きな特徴として、人形の首(かしら)の大型化があげられます。これは明治の初めから中頃にかけて、農村舞台での効果を考えて加えられた工夫と思われます。さらにこの首の使用につれて、それを生かした大振りな人形操作による独自の演出法も生まれました。そして、西日本の代表的な人形浄瑠璃として発展し、周辺地域の人形浄瑠璃にも影響を与えてきました。

ベートーヴェン「第九」交響曲

大正3年、第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4,700人のドイツ兵を俘虜とし、そのうち約1,000人を鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所に送りました。この収容所を管理していた松江豊寿所長をはじめとした人々は、俘虜たちの人権を尊重して、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができ、所内では音楽やスポーツ、演劇など様々な活動が行なわれ、地域との交流も盛んになりました。

1918年6月1日に、ドイツ兵捕虜により「第九」全曲演奏されたのが、日本における初演とされています。
鳴門市では、国内で初めて演奏された6月1日を”第九の日”と定め、6月の第一日曜日に、県内外から500余名の合唱団が合流して国際色豊かに、第九のふるさとならではの演奏会を開催しております。