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震潮記(第10回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その四)
翌十九日は曇りで、昼ごろより晴天となり、御郡代高木真蔵(たかぎしんぞう)様と浦方御用として井上記代次(いのうえきよじ)様がお越しになり、町内をご視察の上、夕方宿へお着きになった。
その暮れ方よりまたまた津波が来ると言い伝えする者があり、前と同様、大騒ぎして逃げる者も多く大混乱となったが、別に変わったこともなく、昼夜小揺り三度であった。町筋は人も通れない程であったので、取り片付けるよう、郷分へ人夫を割り当てするように役人から命じられた。
翌二十日、郷分の村々より役人が人夫を連れて来て、それぞれ手配して、町筋を取り片付けた。
御一統(ごいっとう)様(視察に来た役人)は古目をご視察され、御境目(おさかいめ=国境)を通り、しだ尾(お)へお越しになり、金目から竹ヶ島へ超され、ここから船に乗り、午後四時ごろいったんお宿へ帰られ、すぐに久保村をご視察されてから宿へ帰って泊まられた。この日昼夜小揺り五度だけであった。
翌二十一日は天気は前日と変わりなく、郷分から人夫が来て、早朝から取り片付けをし、午後四時ごろまでには町筋がようやく見通せるようになった。
井上記代次様はお宿へ役人や漁師頭共を集められ、この度御隠居様(十二代藩主斉昌(なりまさ))より潮直しの御祈祷(とう)として、宍喰浦および竹ヶ島へお酒一斗宛を下さった。
また、この度の大地震については、漁師共は一度に稼ぎの道を失って、難儀をしているであろうから、流失の多少や浦方の大小に応じて漁船五、六艘(そう)または七、八艘、諸網(しょあみ)もこれに順じて下されるようなどの仰せがあったので、取り調べて詳しく申し上げた。これは別に控えの記録があるから略す。
当浦の五人組(庄屋を補佐する役)の直平(なおへい)を甲浦(かんのうら)の役人共へ津波などの見舞いに出して、甲浦の様子を聞いたけれども、下筋(しもすじ=西股(にしまた)地区)の様子はまだ分からないけれども、殊の外大きな損害であったようである。
それから御一統様は野江(のえ)村(海部)までお帰りになった。この日は昼夜小揺り五度ばかりであった。
翌二十二日、井上記代次様は鞆浦までお帰りになった。甲浦役人より地震、津波の見舞いとして、五人組の喜三郎(きさぶろう)が来たので、甲浦の様子を聞いたところ、流れた家が十七軒、溺死した者も十七人あったそうである。この日は昼は地震はなく、夜小揺りが三度あった。
翌二十三日は天気で、一番鶏が鳴くころ、中長揺り一度、正午ごろまで小揺り四度、午後八時中揺り一度、明け方まで小揺り七度、合計十三度であった。
翌二十四日は朝曇りで午前八時ごろから天気になり、明け方から午後三時ごろまで小揺り三度、それより暮れ方まで小揺り二度、夜に入って大揺り一度、夜八時ごろから雨が降り出して、大きな風波が立った。
翌二十五日は暴風雨となり、大出水があった。午前八時ごろから雷鳴がひどく、暮れ方にやっと収まった。
小揺りが三度あった。

(田井晴代訳「震潮記」)

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