終戦のころ、古牟岐カメノコなどの砂浜は波うち際まで広く美しく、海亀も産卵に上がり田圃まではいったり、カメノコの人家まではいってきて驚いたこともありました。
ホウノキが浜にたくさん生えて、上の方には堤防代わりに松の木やまさきが生えており、松の木の下には使っていない小舟をのぼして藁で囲ってありました。
ヒラエの浜や砂美の浜も同じで、東浦の小網(いせえび建網)の漁師の人が小屋を建てて、網干しや修繕の仕事をしておりました。道路も開通しておらず、海から船で行くか、潮の引きをみて浜伝いに東浦へいったりしておりました。また遠回りですが灘の地神山越えの山道もありました。
昔の古牟岐の話をしてくれたおばあさん二人に南海津波に遭った話をしてもらいました。
(K、Sさん談、聞取り者、O・N)
◎女性の話
その夜は主人はいか釣りに大島へ漁に出ており、私は四人の子供と寝ておりました。朝方に大きな地震が揺れ出しました。
子供をつれて家の大黒柱を抱えていましたが、大地震では地割れがして危ないので竹薮が安全と聞いていたので、裏のSさんの横の竹薮へ小さな女の子を両脇に抱えて逃げて行きました。しばらくして揺れがおさまったので、「大地震が揺れば必ず津波がくる」といわれていたのを思い出し、一度家まで帰りました。
すると誰かが「津波がくるぞー」ととえていたので、すぐに書き物や食べ物を少し持って裏のKさんくの山畑へかけあがりました。何回も津波が押しよせてぎましたが、恐ろしくて畑の上からみんなで見ていました。家には波が入りこみ、タタミも浮き上りました。
家族は皆無事に逃げ怪我人もなくホッとしました。
浜の松の木の下に囲ってあった小舟は、Hさんの田圃へ流れ込んでいきました。主人は大島の港でイヵ釣りをしていたが、舟が浮いてきて何ごとかと思って帰ってきて驚いたが無事でした。
◎女性の話
主人は下関市へ手繰船の出稼ぎに行って留守でおばあさんと私たち母子五人の家族でした。大きな地震でした。
すぐに子供たちをつれて家の南側の畑の中ですわっていました。津波がくるか分からんと心配になり、裏の家のSおっさんに聞いてみたら「このべた凪に何がくるんなあ」と言いながら通っていったので安心していました。
しばらくすると隣から「津波が来るぞ」ととえてくれたので、大事なものでも持って逃げようと家の中へ取りにはいったら、はや西側のカメノコの浜から津波の第一波がシャアシャアとあがってきました。早く逃げようと思ったが流れてきた舟に通り道をふさがれてしまって逃げることができません。
第一波は小さかったのでそのまま道で待っており、引いていった間に急いでいったん浜へ出て、ホウノキの下を廻って裏の山畑へ逃げました。
前のHさん一家も一緒でした。おばあさんとKとAは先に逃げており、上の畑から「おかあちゃん、おかあちゃん」ととえていましたがどうすることもできず心配でしたが皆無事でした。
二回目、三回目の津波は大きくタタミの上まで波はあがりました。タンスも引き出し二段目ぐらいまで浸ってしまいました。引き潮もえらく恐ろしかったです。台所のかまどで大きな鍋にするめを炊いてあったのがそのまま浮き上って、また元どおり座って鍋に潮も入っておらず食べることができました。しかし便所も何もかも一緒になって汚なく後が大変でした。
浜にのぼしてあった船は出羽下まで流されていましたが、数日後親戚の人が津島沖でひろってきてくれました。下関に行っていたOさんたち親戚の人がすぐに帰ってきてくれ助かりました。
カメノコの他の家もほとんど床上浸水でしたが、山が近かったので全員避難し無事でした。
西地区は舟曳場側にあった石積みの塀が壊れ、海に近い家は四~五戸床下浸水したそうです。道路は大分奥の方まで波がいっています。Kさんの話では、Kじいさんが「津波がきよるのって、下水の蓋を上げて逃げえよー」といってくれたので、蓋を上げて逃げました。
津波は西地区の道路へはいってきたが、下水の中をとおって奥の方へいったので、屋敷にはいらずに助かりました。
中町、東地区は被害がなかったようです。
◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。
【参考サイト】
牟岐町ホームページ